笹森順造は、明治19年5月18日、弘前市に津軽家の血縁に生まれ、幼い時より弘前藩に伝わっていた小野派一刀流剣術、剣道を北辰堂道場で学んだ後、早稲田大学の剣道部に所属した。のちに高美門下須藤半兵衛の弟子対島健八と、同じく柿崎謙助の弟子中畑英五郎から、一刀流組太刀の技と防具剣道を伝承、津軽家、山鹿家から伝書類を継ぎ、小野派一刀流正統継承者となり、神夢想林崎流抜刀術、直元流大長刀術、渋川流十手術も伝承した。※道統については、各流儀の解説でご確認ください。
また、明治18年にデポー大学に留学し、熱心なクリスチャンになった長兄卯一郎の影響を受けて改宗した一家は弘前教会に通い、明治34年、14歳の時に順造は受洗した。順造の礎にあったのは常に武士道精神とキリスト教の信仰であった。
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による剣道禁止期は、全日本撓競技連盟を設立し会長を務め、国務大臣として日本の武道解禁にも尽力した。1953年、全日本学生剣道連盟結成会長就任、1954年、全日本撓競技連盟は全日本剣道連盟(会長木村篤太郎)と合併し、全日本剣道連盟最高顧問に就任した。
東奥義塾塾長、青山学院院長、衆議院議員(4期)、参議院議員(3期)、復員庁総裁、賠償庁長官などを歴任した。
戦前戦後という困難な時代の中で教育、政治、武道、宗教活動に人生を捧げた順造先生が、戦後の荒廃した日本を救うのは武道であるという信念のもと、剣道の復活に魂を捧げ、秘伝とされていた「一刀流極意」を開示し、私財を投げ打って日本の再建を担う青少年の教育の場として「崇神敬人愛國 一刀圓相無極」を掲げて創建したのが禮樂堂道場である。道場に営利活動を持ち込むことを厳しく禁止して、道場・道具の無償使用、無料教授、免許・免状の無料伝授を定め、道のためにすべてを捧げた。
己も相手も生かす極意を伝えることを使命とし、世界平和と隣人愛を希求して清廉潔白な人生を歩んだ。
1886年(明治19年)5月18日、青森県弘前若党町(現・弘前市)に、旧弘前藩藩士・笹森要蔵の六男として誕生。
*笹森要蔵は津軽藩の始祖大浦光信公の弟「津軽為信」の叔父「一町田信建」の直系。津軽藩奉行(大間越町・碇ヶ関町)、江戸詰大隊長。明治13年、東奥義塾に同志が100名位集まり、国会開設建白書を政府に陳述する協議を行った時は議長を務めている。(委員20名の中には笹森要蔵、本多庸一、菊池九郎等。その後、遊説隊を結成した。)
*父笹森要蔵らが明治16年設立した「北辰堂」に8歳の頃より通い、津軽藩に伝わる一刀流を学び、神夢想林崎流の見取り稽古を行った。
1901年(明治34年)2月3日 日本基督教団弘前教会飯久保貞次郎牧師より受洗。
1905年(明治38年)4月、上京。早稲田大学に入学。剣道部主将となる。明治43年、武徳会入会・全国青年大会に出場し、13人を下し優勝。
1910年(明治43年)6月、早稲田大学政治経済科を卒業。東京新公論社、主筆となる。
1912年(明治45年)横浜から米国ワシントン州シアトルへ鎌倉丸にて渡る。その後コロラド州デンバーへ。シアトルやデンバーにて剣道大会や指導を行う。
1913年(大正2年)米国デンバー新報新聞で主筆。
1914年(大正3年)デンバー大学大学院で学ぶ。
1915年(大正4年)デンバー大学院よりマスター・オブ・アーツ号を受ける。
1915年(大正4年)コロラド州日本美江教会主幹に就任。
1920年(大正9年)南加州中央日本人会書記長に就任。羅府道場にて日本人青年会会長。
1922年(大正11年)東奥義塾再興初代塾長に就任。
1923年(大正12年)アメリカの教会で出会った壽子と結婚。子供は・長男陽一(2歳没)・長女黎子(2歳没)・二女良子(74歳没)・次男建英・三男建美(85歳没)・三女より子。
*妻壽子:明治30年5月31日生まれ。父は旧徳川幕臣陸軍中佐、金子直壽・母は陸軍中将男爵山澤静吾(1877年露土戦争に派遣されロシアとルーマニアから軍功賞が下賜された)の二女。大正9年東京女子高等師範学校修身科・教育科・歴史科・漢文科・習字・体操全教員免許受領。大正9年オークランドミルスカレッジ・コロンビア大学ティーチャーズカレッジ修了英語学・教育学・史学を学び、カリフォルニア州から国語教師の免許状受領。弘前女学院・青山学院高等女学校・恵泉女学園・国語科教員。「勁草」同人。歌人として「新万葉集」に数首採用。歌集「むつのはな」出版。
1927年(昭和2年)デンバー大学よりPh.D.を授与される。日本メソジスト教会総会代議員。
1926年(大正15年)護国館を設立する。
1927年(昭和2年)4月7日小野派一刀流正統継承。
1928年(昭和3年)直元流大長刀術免許皆伝。
1930年(昭和5年)神夢想林崎流免許皆伝。明治神宮鎮座10年祭奉納武道形大会にて小野派一刀流を日比谷公会堂で髙杉健吉師と演武。
1931年(昭和6年)剣道教士。
1936年(昭和11年)青森県古来武道振興會を結成する。秩父宮・妃殿下歓迎古来武道大会(東奥義塾)。
1937年(昭和12年)東奥義塾再興15周年記念にヘレン・ケラーを招き、講演会を行う。
1939年(昭和14年)青山学院理事米山梅吉氏の要請があり、青山学院院長に就任。
1941年(昭和16年)ベーカー博士と松岡洋右外務大臣の会談が青山学院院長館にて行われ、立ち合う。
青山学院中学部大講堂にて鶴海岩夫氏と神夢想林崎流演武。小川忠太郎氏・小野十生氏等と院長館の庭で一刀流の稽古を行う。青山学院女子専門部の希望に応えて直元流大長刀術を教え、明治神宮体育祭で演武。
1944年(昭和19年)「実戦刀法」刊行。」
1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙に青森県全県区から無所属で出馬し、トップ当選を果たす。国民党結成。
1947年(昭和22年)国民協同党結成。片山内閣に国務大臣として入閣。復員庁総裁に就任。戦後処理の問題に専心。GHQと全日本武徳会解散問題交渉。11月全国民平和祭(片山総理大臣)で議長。平和決議宣言が議決された決議文をマッカーサー元帥に松岡衆議院議長と届け、英語で対話する。天皇陛下と謁見(海外残留者の帰還問題・艦船の引き渡し状況・掃海・地方巡幸について)
1948年(昭和23年)賠償庁長官に就任。GHQの剣道弾圧全面禁止に対して何度も交渉し、撓競技として許可を得る。
1949年(昭和24年)国際基督教大学理事に就任。
1950年(昭和25年)GHQニューフィールド体育官を訪ね剣道競技を体育として認めるように迫る。全日本撓競技連盟会長、日本経済短期大学学長に就任。
1951年(昭和26年)国民民主党結成。東京神学大学理事に就任。
1952年(昭和27年)大阪歯科大学理事に就任、第25回衆議院議員総選挙に当選。文部省より撓競技が許可、調和後全日本剣道連盟設立。撓競技連盟と剣道連盟が合体し全日本剣道連盟に。
1955年(昭和30年)文教委員会会長、全日本学生剣道連盟会長に就任。
1956年(昭和31年)第4回参議院議員通常選挙に当選。
1957年(昭和32年)日米親善学生剣道訪米使節団、日本軍団長に就任し、13名の選手を連れて渡米。ロサンゼルスやデンバーにおいて大会を行い、小野派一刀流、神夢想林崎流を演武。
1959年(昭和34年)日本ユネスコ国内委員会委員に任命。
1960年(昭和35年)6月、コンゴ共和国特派大使に就任。
1962年(昭和37年)第6回参議院議員通常選挙に当選。憲法調査会委員に任命される。ブラジル列国議会同盟世界大会、日本参議院団長。
1963年(昭和38年)12月15日 禮樂堂を自邸内に創設、開堂式を行う。1964年(昭和39年)、勲一等瑞宝章を受章。日本武道館にてオリンピックデモンストレーションとして鶴海岩夫氏と小野派一刀流を演武。
1965年(昭和40年)「一刀流極意」を刊行。刊行記念会が椿山荘で行われ、政界・教育界・剣道界から多数出席。
(今まで古流が厳秘主義により伝承公布を阻止されていた為殆ど煙滅に瀕している。剣道の大元である一刀流の極意の全てを公開して剣道の教育的発展に役立てたいという思いから秘伝の極意を全て公開した)
1973年(昭和48年)早稲田大学で順造米寿の祝い・壽子喜寿・金婚祝・「闘戦経」出版記念会。
1976年(昭和51年)、2月13日(金)午後6時45分、肺炎のため死去。叙・正三位。
2003年(平成15年)、全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰される。
禮樂堂にて 笹森順造
禮樂堂にて 笹森壽子・順造
禮樂堂 「崇神敬人愛国
一刀圓相極無」の前で
秩父宮・妃殿下歓迎古来武道大会 右笹森順造
小野派一刀流演武
笹森順造(左)石田和外(右)
禮樂堂(自邸)の前で
左から 孫のたまき・娘のより子・笹森順造・孫のゆき子
東奥義塾塾長時代 順造の胸像の前で
笹森順造の抜刀
日米親善剣道大会 団長
笹森順造 前列右から3番目
笹森順造
神夢想林崎流抜刀術演武 左笹森順造
末娘より子・笹森順造
禮樂堂に飾られていた写真と裏書き
左笹森順造 右鶴海岩夫
小野派一刀流
半田正久・半田(笹森)より子・笹森ゆき子・真理香・建
順造の胸像の前で
左から宇津木輝勝・笹森壽子・宮内一・島田貞雄
早稲田大隈会館にて・稲門会主催笹森順造 米寿祝・妻の壽 喜寿祝「闘戦経」発刊祝い 昭和48年・1973年5月21日
右から笹森順造
孫の笹森ゆき子
娘のより子(母)
孫のたまき(姉)
禮樂堂にて
末娘より子・笹森壽子
◆「禮樂堂道場について」笹森順造(手記より)
昭和14年秋に私 は弘前を去って、東京に移るに及んで、小川忠太郎、小野十生両範士の熱誠な一刀流研鑽の熱心に動かされ、私は青山学院館庭前芝生の上で一刀流の演錬を初め、次で下高井戸の岡田守弘範士の道場に便宜を与えられて、同好の士と稽古に励んだ。
昭和38年12月になり、便宜上自邸内に道場を建設する考えになり、岡田道場の規模に倣い、企画した。そして道場を建てたいという多年の悲願が成り、邸内の一隅に聊(いささ)かなる内道場を建てたのでこれを「禮樂堂」と命名した。私は幼少の頃から道場で錬成を受けた恩義を感謝している。そこで私は報恩の志を以て若い人の練成に便宜を供することに喜びを覚えている。家内も喜んで賛同し協力している。私を産み育て教えて人にしてくれたのは家庭、学校、教会、道場である。それによって愛情育成、文学科学、信仰救霊、勇武礼譲などの諸徳を身につける方途を与えられた。私が養成の恩を受けた場は北辰堂、弘前中学道場、修養社道場、小倉道場、早大道場、北米武道会道場、羅府道場、東奥義塾道場、弘前武徳会道場、護国館道場、青山学院道場、岡田道場、京都武徳会本部道場、清寧館道場、衆議員道場、参議院道場、日本武道館道場、そのほかに一時的に試合や稽古に赴いた道場は挙げて数えることができない。
自邸内の内道場禮樂堂道場は自力で建てた規模の小さいものであり、南北四間幅、東西五間の五間に四間半の稽古場の外に高壇、二机室、物置があり、床板は四間通し一寸厚の杉板を張り、その下に厚いフェルトを詰め、その下に三分の板を敷き、その下に一尺の空間を置き、その下に太い梁を通し、堅固と弾力性を持たせてある。建上を二間合掌造りとした。東側一間上座を床の間とし、西側二間四畳半敷きの応接二間とし、総二階を道場用とし、窓は高く採光は十分にしてある。階下を住居用部屋とした。
禮樂堂道場は「崇神・敬人・愛国」を3つの綱領とし、その哲理を究め、行動の完了、心身の修養を本旨としている。
ここを浄め神を崇め人を敬い国を愛する教義と行動力とを養うために、聖樂に心を鎮め、日本古来の武道たる一刀流、神夢想林崎流、直元流などを学び、宗教と文芸と武芸を以て自らの霊肉を養い同好の士に幼少年と相携え、この道にいそしむことになったのである。
「拝啓 このたび私の邸内に聊かな道宇を建てて禮樂堂と名付けました。崇神、敬人、愛国の実践を念じ、神の教えを受け、聖楽を奏し、一刀流その他の剣道を学び、次の時代を担う青少年の心身鍛錬の道場とする所存であります。左の次第で道場開きをいたしますから、御賛同を賜りご光臨下されたくご案内申し上げます。折返しご来否ご都合お返事お願い申し上げます。昭和38年11月28日」という案内状を発した。
昭和38年12月15日午後零時半からこの道場開きを行った。
◆「一刀流極意書刊行苦心談」稲剣誌より
縁あって日本剣道名流一刀流を幼少の頃から学び、八十年の間これを 噛む特権を与えられて来た喜びを独占せず、 大方の篤志者の研鑽の資 として、一刀流極意書を公刊することを決意した。 本来その極意は神 罰を蒙るものとの誓約に血判を捺して、他見他言せざることを厳粛に誓ったものである。この厳秘主義と後学者の激減とは各流の姻滅を 迫っていることに鑑み、 私は神罰よりは神の祝福を念じ、 公開伝達公布振興を試みようと決意したのである。
稲剣誌 創刊号「一刀流考 伊藤一刀斎を尊宗し、一刀流に傾倒する理由12条より」笹森順造
流祖一刀斎の教を元として伝わる正統の組太刀を列挙すると、大太刀、小太刀、合小太刀、三重、刃引、払捨刀、五点、他流勝之太刀、十二点巻返、九箇之太刀、浄之太刀、軍神御拝の太刀、詰座抜刀、立合抜刀等がある。これらの演錬方式には真剣、匁引、木刀、掠、竹刀等を用い、素面、素小手または鬼小手使用、或いは防具面、小手、胴、垂を纏い竹刀打をかける法等あり、稽古の方式は多種多様にして完壁である。
形而下の武技は形而上の心術から来ている。従って武の精神を養うことが本である。そのために流祖以来代々の師によって玄妙な心術の極意書が作られてある。その本体は極意四巻の書である。これは第一、十ニケ条目録、第二、仮字書、第三、本目録、第四、割目録、である。それに各種の免状が添えられてある。その各々に師の口伝が与えられ、門弟子の口伝が与えられ、門弟子の口伝聞書が附してある。これ等は全部現在に伝達され、これを学ぶ者の指標となっている。
古伝名流剣道の多くは代々の師が極意伝達を厳秘に付し、軽々しく伝えず、学ぶ者も減じ、後継者なく、大方姻滅した。折角伝わるものも後代の師が潤色し原形を失っているものがある。一刀流は江戸時代に将軍家や各雄藩内に行われた名流であり、明治時代に警視庁で奨励され、引き続き現在に及び、最近では早稲田大学始め各大学で学び、普及振興してきているので篤志者の学ぶ機会が開かれており、専門大家も関心を寄せ推奨している。近来幼少年の間に一刀流を学ぶ者多くなり、託児所や幼稚園に通う男女幼児から小・中学生等も元気よく行儀正しく喜こんで学んでいる。教える者と習う者との年輪の差が八十あるので今後八十年は一刀流が古流のまま伝わるものと、たのもしい次第である。
◆「孤剣300年の伝統に生きる人 笹森順造」
(新東北1967年8月号より)
〔小野派一刀流を受け継ぐ笹森氏 木刀、真剣で稽古〕
面はつけない。竹刀の代わりに木刀、あるいは真剣でけいこする。
これが全国でただひとつ残っている小野派一刀流道場。関係者もほとんどその存在を知らないほど。
『棒ふり剣術では駄目だ。真の剣道はこれだ』と叫ぶ人。孤剣を守る道場主。参議院議員笹森順造氏である。
桜と城で全国的に知られる弘前市の出身。東奥義塾の創立者であり、当時から弘前で小野脈一刀流の道場を開き、若き剣士たちを育ててきた。
今や八十一才。全日本剣道連盟の最高顧間で十段。明年の参院選半数改選では、再び青森県地方区から出馬する。自民党公認もほとんど確実視されており、老剣士というよりは壮者をしのぐ孤剣三百年の伝統をうけつぐ人として、更に参院議員としての大成にかけられた期待は大ぎいものがある。
東京世田谷にある笹森道場は、孤剣三百年の伝統に徹し、颯々たる太刀筋から起る清気まさに俗じんを払い、袴もけいこ着も白一色に銀髪の道場主笹森十段を中央に玉の汗をものともせず、約六十人の門弟たちが丁々発止のけい古に余念がなかった。
筆者が道場を訪ねたのは、七月のある日曜日の昼さがりで、世田谷区代沢一丁目、笹森さん宅の道場は、むんむんとする熱気をおびていた。
ここの道場は熱気をおびいているが、静かである。他の道場のように竹刀、防具のぶつかりあう激しい音、空気を裂く、裂帛の気合いもない。しかし、門弟たちの額は、玉の汗だった。木刀、あるいは真剣で面をつけないけい古は、静かだが、緊張そのもので、身体の動き、剣の動きは少ないが、気迫はすごい。
道場中央に白稽古着の笹森さんが高弟と真剣で立ち会っている。グッと迫った笹森さんに、相手は「参りました」と深く頭を下げた。
『これが一刀流の極意だ』笹森さんの声がすぐとんだ。
使う道具は鬼小手というヒジ近くまでかくれる特大サイズの小手だけである。木刀で型をきめるのが練習法だが、間違って当たることもある。
『それやあ、痛いさ。痛いから打たれないよう用心する。そしてうまくなるんだ』笹森さんは声を立てて笑った。童心にかえったような明るさである。
〔静寂の一瞬決まる 打たれれば痛い〕
日本には剣道の流派はもう数えるほどしか残っていない。幕末の全盛期には八百余を数えた諸流派も明治三九年に、日本剣道形に統合されてしまった。
小野派一刀流と新陰流が軸になり、全日本剣道連盟と文部省が話し合って決めたのである。今日本で教えているのは、ほとんど全部がこの形で諸流派は地方でひっそりと生き残っているのが現状だ。
六歳の時から剣道をやっている笹森さんは『このままだと日本剣道は滅びる』と真剣に考え始めたのは十年前だった。
現在は参院議員の仕事以外は全てをやめて、温厚な人ではあるが、剣道の話になると、別人のようにエキサイトする。まさに立板に水、という言葉がぴったりの急ピッチで喋りまくる。
「今立て直さなければ日本の剣道はダメになる。先人には申し訳ないが、私は秘伝を公開する決心をした。小野派の秘太刀をこれはと思う人にどんどん教えていく。だけが剣道を救う道だ』。
これほどの決心をしたのには、もちろんそれだけの理由がある。
『全日本選手権優勝者に基本の型をやらせてみたんだ。ところが、型などと言えるものではない。欠陥はただ、竹刀を振りまわし、強くさえあればいいという今の剣道の考え方に矛盾があることに気づいた。「病根」を発見した時から小野派一刀流はもう私一人のものではなくなった』
竹刀剣道と木刀のそれとでは、考え方が根本的にちがつており、稽古方法は「水と油」
スポーツ化した今のものは『くるくる動いて、相手のスキをつくりそこを一気につく』のが狙いだ。
木刀けいことなると静寂そのもので、真剣のつもりで構えるので、ムダに動かない。互いに殺気をほとばしらせながら、さっと木刀が振り下ろされた時には、瞬時にして決着がついているのだ。
再建の道はきぴしかった。片山内閣で国務大臣をやり、衆院議員もやったが私財はない。とりあえず自宅で稽古をはじめたが、道場にあった八畳間は埃がもうもうと舞い上がる始末。現在の道場がやっと完成したのは三年前で、知人、友人の寄付金でつくったものだが、営利が目的でないので月謝は一円もとらない。
警視庁で採用
『一刀流極意』を出版したのもやはり三年前のこと。門弟はそうそうたるメンバーで、警視庁主任師範の小川忠太郎さん。東京都剣道連盟理事長の渡辺敏雄さん(早大コーチ)、チビッコ剣士の島越宏一君(世田谷区代沢小四年)も猛者連に混じって鋭い太刀を見せている。習い始めてまだ半年というのに古龍独特の無声の気合いをすつかり覚え、『腹の中で声を発している』というから素晴しい。
『基本の太刀筋が、竹刀剣道よりはるかに多い。上達の条件はそろえている』(小川さん)
『むちゃ打ちがないので、精神統一がしやすい。むだな動きで疲れさせることもない』(渡辺さん)
笹森さんの努力は地味な形だが、実を結びつつある。
昨年は警視庁剣道部で木刀げい古が採用され、早大剣道部でもごく近い将来やってみる計画だという。
『木刀で稽古をやっているなんて初耳だ。一度ぜひやってみたい』(学連大木幹事)
失われていくものの貴重さに気づいた人々がやっと共感を覚え始めたのだろうか。
笹森さんは寸暇をさいては、日本全土を周り「極意」を教えて回りたいという念願をあたためている。それはいつの日か。孤剣三百年の伝統に生きる老剣士笹森さんに、是非実現してもらいたいものである。
「闘戦経」笹森順造著
第一章 万物根源
【原文】我武者在天地初而一氣雨天地。若雛割卵。故我道者萬物根源百家櫂輿也。
【読下文】我が武は天地の初めに在り、しかして一気に天地を両つ。雛の卵を割るがごとし。故に我が道は万物の根源、百家の権輿なり。
【大意】我が武は天地の初めにあった。そしてこの武は一気にはたらいて、天と地との両つにわけた。それはあたかも雛が卵を割るようなものであった。故に我が武の道は万物の根源であって、あらゆる道理の始めである。
【解釈】闘戦経の巻頭に『我武』とある。これ実に全巻を貫く雄渾なる日本思想と、玄妙なる哲理とを象徴する大文字である。ここに言う「我」とは宇宙と一体に存在する「われ」という意味であって、それは一個人のなんじとわれ、彼れとわれ、誰れとわれとの対比の小我のわれではなく、地理的にも歴史的にも、思索的にも、局限された極東のちっぽけな一小島国日本の現代のわれという考え方ではなく、人類普遍の真理に合する「われ」であって万代をあまねく照らす宏大無限なる「大我われ」である。この自覚に立って本書の巻頭に日本の武の根本原理が明示されているのである。
「武」の漢字の起原を尋ねると「矛を止む」と書き、説文には楚の荘王日く「夫れ武は功を定め兵をおさむ、故に矛を止むるを武となす」と述べてある。この意を展開し、武器の威力を用いて兵乱を未然に止むるのが武であるという。
また武の地位と重要性について、説苑には「文徳を先にし、而して武力を後にす」と唱え、武は文事に対する兵事であり、文事を以て治らない時に止むなく後に用うべき次後的処理法であると説く。中国の武に対する評価は老子によって代表的に説述されてある。曰く「兵は不祥の器なり。君子の器に非ず。之を楽しむ者は人を殺すことを楽しむものなり。人を殺すことを楽しむ者は志を天下に得べからず」と言っている。彼の武に対する思想と行動はことごとく対照的・消極的・殺識的であり、そして不吉の器としているのである。
本書「闘戦経」の武の思想は相対的・次後的・不祥のものではなくして、絶対的にして、すべての経験に先んじて存在し、宇宙元霊を発動せしむる原動力なりと観ずるのである。この広く深い思想にくわだて及ぶべきものを強いて求めるとすれば、むしろ老子のいわゆる「道は天地の始に在り」と説いたのが、それに近い。また聖書には「元始時に神あり」と述べてある。
天文学者は宇宙の起源を探求し、進化論的にさかのぼり、その元始ははっきりした形がなく雲霧の如き状態に在ったとの「雲霧想像仮説」を樹てている。本書においては、かかる元始の状態を観じて『我武」は天地の初めにあり、一気に天地をわかつと述べ、すべてのものは実在の生命の分裂から生成する起原を教えている。気とは全宇宙を包み、万物を生成する原動力である。この気が一度動いて、宇宙間にもろもろの形相を現滅する。
この一気の発動こそ『我武』の働きである所以を明らかに示すのである。
武の機が先ず発して天と地とが両方にわかれる。これは、あたかも雛が卵を割るが如き有様にたとえるのである。卵が卵である間は頭も胴も翼も脚も尾も区別がない。その殻の中ははっきりした形がなく、外形も丸い一個の卵である。この卵に生命が生ずる本原の秘訣は何か。それは陰陽結合の時から始まる。無精卵には生命の発動は起こらない。有精卵がその親鳥に抱かれ体温を与えられて、この上下かんぷの双力によって卵の生命が発動をなし、親の分身である卵の中の養分を食い生長して、雛となり、機満つれば生命力がりっぱな鳥となる。すでに鳥となれば、もはや殻の中にちぢこまっているべきではないので、中から一気に殻を二つに割って躍り出る。『我武』はすなわち尊貴な宇宙元霊の発動力であって、一気に動いて宇宙を天と地とに分け、その清きは上って天となり、濁れるは下って地となり、引き続き『我武』が活動して万有を生成化育して行くのである。これすなわち『我武』の産たる所以である。ここに『我道』の『我武』たる理が明かされてある。元来道とは人の通行する道路のことである。転じて人の践み行なうべき道徳の義となっている。
老子は、この道はこれを行なって、これは道であるとしても、変わることがあるからこれは常の道ではいと言っている。
天道で春夏秋冬を季節の道とし、春は一気の始まる時、夏は一気の通る時、秋は一気の成る時、冬は、一気のやむ時とするが、これらにはみな、それぞれに易る道がある。このように人道に在っては仁義礼智信を以て道とすると、仁は温和慈愛の理、義は断裁裁割の理、礼は恭敬謙節の理、智は分別是非の理、信は随順椅任の理というのであるが、これはみな変化する事のある道であって常の道ではない。常の道というのは、天地未だ分かれざる以前このかた、少しも変化せぬ本然の妙諦である。これを大極という。この常の道は道の全体である。そこで道の道とすべき道の一部分たる大用の道であると説くのである。聖書では「我は道なり、誠なり、我によらずしては神に至ることなし」と。人が神に至る道はこれであると説いている。
日本で言う「みち」は極めて明快なもので、それは「ゆきかようすじみち」である。
そこを一方からわたって他方に届くみちである。二つのかかりあうすじみちである。この二点を結ぶ最も近い道は真直な線である。我が国では最も近い真直な正しいみちを尊ぶ。親子、兄弟、夫婦、師弟、朋友など、その心の通うかかりあいは、本来真直な正しいみちである。曲ったり横にそれたりしては正しいみちとは言われないと説くのである。純真嬰児が慈母の顔を見るようにそむかないことである。この通りに日本の武の道は真直な正しいものである。
これを小さく言うと、刃筋も真直に正しくはたらかず、途中で曲ったり横になったりすると平打ちや峰打ちになり、刃がこぼれたり刃が曲ったり折れたりして役に立たなくなる。刀法は真直になって働くべき道である。心も真直でなければ明徳に達することができない。
これを大きくいうと、「我武」の関わる人倫の道、天地自然の道、天行健なる道、大極の道、絶対の道は真にして直、誠にして正、清にして明なる道である。この道は真理に徹することである。真と理とは元来二つのものの最も正しいかかりあいのことである。
故に日本の『我武』は万物の根元であり、また百家の創始であり、万物生成化育の原動力であり、絶対の真理である。真如則武と観じ、聖愛則武、創造則武と説くのである。かく宇宙万有の大本たる『我武』の道が開けて百家の道が分かれ出で、それに則って様々の天業人事が進められてゆくのである。本書の根元は、万有一原論であり一神論である。このことは「古事記」の天地開闢の記事によって悟るべきである。
笹森順造の演武記録 (順造の手帳より)
1930(昭5年) 11月5日 日比谷公会堂 明治神宮鎮座十年祭奉祝武道形大会
小野派一刀流演武 高杉謙吉・笹森順造(弘前より上京して刃引を演武)
1933(昭8年)11月3日 日本青年館 明治神宮体育大会剣道大会
小野派一刀流演武 笹森順造 高野佐三郎
1935(昭10年) 日本古武道振興会創立
5月3日 湊川神社 大楠公六百年記念大祭奉納武道大会
小野派一刀流演武 笹森順造 高野佐三郎
8月5日 氷川神社 古武道形奉納大会
小野派一刀流演武 笹森順造 小館俊雄
10月25日 明治神宮奉納古武道形大会 外苑相撲場
小野派一刀流演武 笹森順造 小舘俊雄
神夢想林崎流演武 笹森順造 小舘俊雄
1936(昭和11年)年3月18日 青森県古来古武道振興會
秩父宮同妃両殿下台臨大会 東奥義塾大体育館
小野派一刀流演武 高杉謙吉、笹森順造 鶴海岩夫
市川弁治 小舘俊雄 藤原新太郎
神夢想林崎流演武 笹森順造 小舘俊雄
1937(昭和12年) 古武道振興會 秩父宮同妃両殿下台臨大会
小野派一刀流演武 高杉謙吉、笹森順造
神夢想林崎流演武 笹森順造 小舘俊雄
1939(昭和14年) 青山学院講堂
小野派一刀流 神夢想林崎流演武 笹森順造
10月25日 古武道振興會 明治神宮奉納古武道形大会
小野派一刀流演武 笹森順造
1940(昭15年)1月1日 青少年武道練成大会
小野派一刀流演武 笹森順造 小野十生
4月6日 橿原神宮 奉祝奉納武道大会
小野派一刀流演武 笹森順造
9月30日 日比谷音楽堂
古武道振興會紀元二千六百年奉祝全国古武道各流型大会
神夢想林崎流演武 笹森順造 小館俊雄
小野派一刀流演武 笹森順造 小野十生
1941( 昭16年)5月17日 宮城県清寧館武道大会
小野派一刀流演武 笹森順造 鶴海成知
1942( 昭17年)5月24日 第1回大日本皇道義会本部武道大会
小野派一刀流演武 笹森順造 鶴海成知
1952( 昭27年) 10月30日 明治神宮 明治天皇御誕生百年大祭奉祝
全国古武道各流大会
小野派一刀流演武 笹森順造、小館俊雄、小野十生、
鶴見成知、小川忠太郎、石田和外、紀伊末雄、清野武治
1953( 昭28年)10月29日 至誠館三二道場 笹森先生歓迎大会
11月8日 蔵前国技館 全日本剣道選手大会
小野派一刀流演武 笹森順造 鶴海岩夫氏
1954(昭29年)6月16日 躋寿堂剣道場 道場開き
小野派一刀流演武 笹森順造 小野十生
1955( 昭30年) 7月24日 第2回全日本東西対抗剣道大会
小野派一刀流演武 笹森順造 鶴海岩夫
1956( 昭31年) 10月8日 日比谷公会堂
開都五百年記念大東京祭日本古武道大会
小野派一刀流演武 笹森順造 小館俊雄
直元流大長刀術演武 笹森順造 笹森(半田)より子
11月16日 第1回日米親善剣道大会 日比谷公会堂
小野派一刀流演武 笹森順造 鶴海岩夫
1957 昭32年3月31日 第3回剣道祭並びに全日本古武道大会 宮城県剣道連盟主催
神夢想林崎流演武 笹森順造 小舘俊雄
直元流大長刀演武 笹森順造 笹森(半田)より子
5月2日 白木屋ホール
直元流大長刀術演武 笹森順造 笹森(半田)より子
5月4日 白木屋屋上
直元流大長刀術演武 笹森順造 笹森(半田)より子
10月6日日本古武道大会 日本青年館(神宮外苑)日本古武道振興會主催
小野派一刀流演武 笹森順造 小野十生 石田和外
神夢想林崎流演武 笹森順造 小舘俊雄
直元流大長刀術演武 笹森順造 笹森(半田)より子
1957(昭和32年)2月6日 8月18日 日米親善学生剣道訪米使節団・日本軍団長に順造が就任・十三名の選手を連れて訪米
第1回 ロサンゼルス 高野山大ホール 参加者数百名の剣道大会を開く
神夢想林崎流演武 笹森順造 井上正孝監督
コロラド州デンバー 笹森順造歓迎剣道大会
日本剣道形 笹森順造 後藤
小野派一刀流演武 笹森順造 笹森建英
神夢想林崎流演武 笹森順造 宮本孝内
1958 (昭33年) 11月 全三菱武道大会 三菱武道館
小野派一刀流演武 五点笹森順造 小野十生
立会抜刀 笹森順造 笹森建美
神夢想林崎流演武 笹森順造 笹森建美
1959(昭34年) 6月6日 全日本杖道連盟主催 第5回各流武道大会
11月6日 NHK教育テレビ 国語研究室第5回
「日本語の語源」出演
解説金田一春彦 演武解説 笹森順造 笹森(半田)より子
1962 (昭37年) 1月28日 一刀流免許
小野十生 小川忠太郎 石田和外 鶴海岩夫に免許皆伝
清野武治 十二ヶ条免許
12月2日 天皇杯授与 第10回全日本剣道選手権大会
東京体育館
小野派一刀流演武 笹森順造 鶴海岩夫氏
1963 (昭38年) 11月28日 禮楽堂設立 (献堂式)
笹森順造(清浄霊剣新式場浄之式太刀)
新夢想林崎流 吉田重成 清野武治 宇津木輝勝
小野派一刀流 笹森順造 清野武治
小野十生 岡田守弘
鶴見岩夫 大森茂作
清野武治 宇津木輝勝
小川忠太郎 石田和人
小野十生 小野寅雄
笹森順造 笹森建英
1964 (昭39年) 7月13日 古武道振興會 靖国神社演武
10月15日 オリンピックデモンストレーション
日本武道館 古武道の形(小野派一刀流)演武
笹森順造 鶴海岩夫
1965 (昭40年) 1月1日 青少年武道練成大会
小野派一刀流演武 笹森順造 小野十生
1月13日 第5機動隊道場
小野派一刀流刃引き演武 笹森順造 小沼宏
1月15日 青少年武道練成大会
小野派一刀流高上極意五点演武 笹森順造 小野十生
8月16日 NHK取材 禮樂堂
笹森順造 白取イチ子 小川忠太郎 宮内一
8月18日 350年大祭奉祝第15回日光剣道大会
小野派一刀流演武 笹森順造 鶴海岩夫
11月21日 「現代のスポーツ」「道」日本人とスポーツ放映
笹森順造出演 小川忠太郎・宮内一
11月24日 椿山荘 「一刀流極意刊行会」
一刀流刃引演武 笹森順造 鶴海岩夫
小太刀・相小太刀演武 小野寅雄 宮内一
1966(昭41年) 4月5日 剣道となぎなたの会
参議院会館地下3階武道場
小野派一刀流演武 笹森順造 小川忠太郎
笹森道場(禮樂堂)より江藤慎三(小6)加藤青延(小6)
7月22日 住友 神田別館武道場道場開き
小野派一刀流演武 笹森順造 小川忠太郎
9月4日 代々木 東京都なぎなた大会
直元流大長刀術演武 笹森順造・宇津木輝勝
白取イチ子・宇津木輝勝
10月2日 仙台 宮城県スポーツセンター
第1回東西対抗なぎなた大会
直元流大長刀術演武 笹森順造 白取イチ子 宇津木輝勝
1967 (昭42年) 10月4日 国際剣道大会 武道館
小野派一刀流演武 笹森順造 石田和外
1968 (昭43年) 2月11日 目黒署 小野派一刀流演武
8月1日 日本武道館 全国少年剣道錬成大会
小野派一刀流演武 笹森順造 小川忠太郎
1970 (昭45年) 第一回世界剣道大会 笹森順造は委員
小野派一刀流演武 島田貞雄 ハリス
宮内一 今村稔
松元貞清 近光正
1971 (昭46年) 4月4日 禮樂堂 一刀流極意秘書傳授式
小野派一刀流 松元貞清 近光正
三井良人 大石浩行
山口雄輔 田中昭鷹
志甫徹 ウイクトル・ハリス
井崎武広 大塚謙二
今村稔 小島清司
清野武治 宇津木輝勝
渡辺敏雄 片倉博巳
小沼宏 斎藤泰二
宮内一 島田貞雄
近光正 松元貞清
島田貞雄 宮内一
神夢想林崎流 松元貞清 近光正
松元貞清 島田貞雄
直元流 島田貞雄 宮内一
松元貞清 近光正